よたよたばなし

好きなもののことについて色々と書き散らすために解説しました。ついったに流すには長いなーと思った由無し事などをこちらに投稿予定です。文学と音楽が好きです。腐り歴の長い貴腐人です。

あまりにも槍弓な詩を見つけたので槍弓の女みんな見て その1

貴婦人たるもの、当然の嗜みとして「どんな音楽を聴いても推しカプの関係性に変換できないか即座に探り、何を見ても推しカプの影が潜んでいないか熱心に探す」という習性を持っているものと信じているのですが(主語が巨大)(異論は大いに受け付けます)、私自身もライフワークとして日々これを行なっております。

あまりにも推しカプじゃん!と思ったうたは「みんな!みんな見て!!」と「勝訴」みたいに広げ掲げて走りまわりたくなってしまうのですが、現実でそれをやると通報待ったなしですから、ネットの海で走り回るのをどうぞ許していただきたいです。

 

 

本日のうたは、井上靖先生の「流星」です。

 

もうタイトルで槍弓の気配をバシバシに感じ取ってしまったあなた、槍弓ストとしてのアンテナがとても敏感でいらっしゃる。槍弓ポイント5000兆点と、私からの熱い握手を受け取ってください。このポイントは妄想力(スカウターで測ることのできる数値)として換算されます。

 

それはそれとして肝心の本文の方もあまりにも良き槍弓連想を掻き立ててくださいますので、もうとっとと紹介させていただきますね!

 

「流星」井上靖

 高等学校の学生のころ、日本海砂丘の上で、一人マントに身を包み、仰向けに横たわって、星の流れるのを見たことがある。十一月の凍った星座から、一条の青光をひらめかし忽焉とかき消えたその星の孤独な所行ほど、強く私の青春の魂をゆり動かしたものはなかった。私はいつまでも砂丘の上に横たわっていた。自分こそ、やがて落ちてくるその星を己が額に受けとめる、地上におけるただ一人の人間であることを、私はいささかも疑わなかった。
 それから今日までに十数年の歳月がたった。今宵、この国の多恨なる青春の亡骸――鉄屑と瓦礫の荒涼たる都会の風景の上に、長く尾をひいて疾走する一箇の星を見た。眼をとじ煉瓦を枕にしている私の額には、もはや何ものも落ちてこようとは思われなかった。その一瞬の祭典の無縁さ。戦乱荒亡の中に喪失した己が青春に似て、その星の行方は知るべくもない。ただ、いつまでも私の瞼から消えないものは、ひとり恒星群から脱落し、天体を落下する星というものの終焉のおどろくべき清潔さだけであった。

(大和書房 小海永二『日本の名詩 鑑賞のためのアンソロジー』より引用)

 

 

いかがでしょうか。

素晴らしくないですか?

あんまりアレコレ言うのは正に野暮天だよと思うのですが、私はこちらの素晴らしい詩の中に、「荒廃した砂漠の戦場で、静かな夜に星を見上げている生前弓」を見出しました。

この詩の味わいは、何と言っても、憧憬をたっぷり含んで空を堕ちゆく孤独な流星に感動している、思春期の眼差しの透き通りぐあいではないでしょうか。「あの流星は自分に落ちてくるのだ、あの流星はただこの世で自分一人だけを目掛けて落ちてくるのだ」と思えるなんて、なんと傲慢で純粋なのでしょう!

ところが、戦乱を経て、荒廃した都会の片隅で大人になったとき、同じように流星を見ても「もはや私には何も落ちてこない」と悟ってしまう。

星は孤独で、自分も恐らく孤独で、そして自分はもうあの星を受け止められる人間ではなくなっている。

さらに「良さ」が極まるのはここからなんですけど、それでも流星の「おどろくべき清潔さ」に、胸を打たれる「男」が描かれているんですよね……。

 

こんなん槍弓やん?(異論は大いに受け付けます)

 

 

また「良さ」溢れる詩や楽曲を見つけ次第、こそこそ記事にしたいと思います。

宮澤賢治と2部6章

宮澤賢治の作品が昔っから好きです。
FGO2部6章を読み終えて二晩眠って起きた朝、ふいに「よだかの星」と「銀河鉄道の夜」という二つの作品と共通する展開というか、要素があることに思い当たりました。
これから書く内容は単なる思いつきですし、私は真っ当な研究者などではありませんから、ひょっとするとどなたかの気に障ることや、間違ったことを言い出すかもしれませんが、「好きなもの二つがどこかで繋がるのかも!」と思いついてしまったオタクの浮かれた書き物だと流していただければ幸いです。

 


よだかの星」という名作短編は、じつにかなしく、激しいお話です。
「よだか」は名前の中に「鷹」の字を持ちながら鷹ではなく、鳥の仲間どころか、山野に生きるすべての生き物から見下され、嫌われています。この物語の一文目は「よだかはじつに醜い鳥です。」なのですから、彼の定義は揺るぎなく「醜」でしょう。
子どもを助けても親に蛇蝎のごとく睨まれ、鷹には改名を迫られ殺すとまで脅されて、よだかは悲しみながら空を飛び、羽虫を飲み下すとき、自分の命がながらえることさえ悲しいことだと感じます。
「遠くの遠くの空の向こう」へ行こうと決意し、きょうだいのひとりであるかわせみのとこへ行って、引き止められるものの別れを告げ、巣と自分をきちんときれいにしてから夏日の中へ飛び出すのです。
よだかは昼の太陽に拒絶されます。「よだか」だからという理由です。夜の星に頼めというのです。
気絶して夜に目覚めたよだかは、山やけの真っ赤な火を眼下に空を飛びめぐりながら、星々に願いを告げます。「どうか自分を夜空の星の一つにしてほしい」と。
東西南北の四つの立派な星たちは、めいめいに断りの文句をよだかに投げつけました。
すっかり力を落としたよだかは、羽を閉じて、地に落ちていきます。そらの中ほどで、よだかは体をゆすり、山野の鳥を震え上がらせるほど激しく高く叫び、どこまでも、どこまでも空をのぼっていきます。

 

「寒さや霜がまるで剣のようによだかを刺しました。よだかははねがすっかりしびれてしまいました。そしてなみだぐんだ目をあげてもう一ぺんそらを見ました。そうです。これがよだかの最後でした。もうよだかは落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。ただこころもちはやすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがっては居ましたが、たしかに少しわらって居りました。」

 

この後よだかは星となって燃え続ける結末が待っているのですが、上記の引用部分と物語の展開中のいくつかの部分が、2部6章とオーバーラップしました。

 

まず一番大きなラストシーンの類似性かつ対称性(あえて対照とは言いません)は、いうまでもなく「オベロン・ヴォーティガーン」と「よだか」の「さいご」のありさまについてです。
異聞帯ブリテンと汎人類史の崩壊を望んだオベロン・ヴォーティガーンは、自らである「奈落の虫」の中を、どこまでも落ち続けていきます。主人公たちも一時呑まれ、「落ち続ける」なかで「上も下も、出口もない、ただ落ち続けるだけの穴」として認識された「奈落の虫」の体内ですから、「永遠に落ち続ける」というのは一種の直線のベクトルとしてとらえてもいいような気がします。
「よだか」は昇り続ける中で感覚を失い、もう自分がどこへ向かっているのか分かりませんでした。ただ「どこかへ向かい続ける」意志だけは最後まで手放さなかったからこそ空へ昇り星になったはずなので、直線のベクトル運動を続けていたと考えられます。

 

そして、「落ちる」「昇る」という対称の動きをしながら、自分に訪れる「さいご」を、彼らはどちらも「穏やかなほほえみ」をたたえて受け入れています。
最初は「華麗な妖精王」として登場しながら、醜い本性をあらわし、落ち果ててほほ笑みとともに「さいご」を迎える「オベロン・ヴォーティガーン」。
最初は「みにくい鳥」として登場しながら、醜いままに空を昇りつづけ、ほほえみながら美しい星になって「さいご」を迎えた「よだか」。
直線運動の対称性、動き続けながら「さいご」を迎えること、起点の対照性、受忍と肯定の「さいご」。
反対・対照と、類似・共通が複雑に絡み合って、二者がオーバーラップするラストシーンになっている。
奈須先生にこんなオマージュの意図があったか無かったかは、私に知る由もありません。
ただ、二つの物語を知っている人間として、重なりきらない、対象でもない、二つ重ねたときに複雑な文様を描くようなこの「対照性・類似性」が、ひどく魅力的に感じてしまいました。

 

 

細かい類似点や状況の共通性は他にも見出すことができます。
よだかの飛ぶ夕闇や夜の世界は、「山やけ」の火に覆われて赤く燃えており、雲は真っ黒なのです。情景としての舞台設定はきれいに重なります。

 

また、よだかが星になることを決意したのは、食料であるかぶとむしを飲み込むときの「喉の感触にぞっとした」からでした。身体的・生理的な「不気味さ」「気色の悪さ」とでも言うべきものが、「自身の(オベロン・ヴォーティガーンにとっては自身を含む世界の)さいご」を望む際の動機になっている点も、共通ではないかと思います。
食料となる虫を「食い殺す」ことに対し、慈悲から発心して「星になろう」とするよだかと、虫に同類とみなされて「慕われ・集られる」ことに対して嫌悪と侮蔑を抱き、自分を含めたすべてのものの破滅を願うオベロン・ヴォーティガーン。この点も合わせ鏡のようです。

 

山やけの火にあぶられる真っ黒な雲の中をひたすらに飛んでいくよだかの姿は、「アルビオンの竜」にも重なるところがあるのですが、彼女は受忍とともに散ったのではなく、懐古し、その中にあった希望を見つめながら「さいご」を迎えたものと、私個人としては捉えています。
「じぶんの過去と今のすべて」を否定して落ちていった/昇っていったものとはやはり対比されるべきかと思いますし、よだか的だったのは、私個人としては、どちらかというとオベロン・ヴォーティガーンの方であったかな、と考える次第です。

 

 

 

銀河鉄道の夜」のほうは、非常に長く、またあまりに有名なお話ですから、必要な部分のみに言及し、全体のあらすじを解説することは避けようと思います。

 

まず、「銀河鉄道の夜」じたいが、死者の乗るべき列車に乗ってしまった生者である少年を主人公とした「童話」であり、この鉄道はさまざまな「駅」に停まるという点が重要です。これは異聞帯ブリテンにおける「巡礼」のシステムとやや重なる点があり、そもそも異聞帯ブリテンにおけるエピソードは「モルガンのための童話」であるという言葉は、それこそオベロン・ヴォーティガーン自身の口からはっきり語られています。

 

次に、銀河鉄道の終点であろう「石炭袋」「そらの孔」について考えたいと思います。
銀河鉄道に乗り込んだジョバンニと、友人であるカムパネルラが別れてしまうのは(正確に言えば、カムパネルラが消えてしまうのは)この「石炭袋/そらの孔」を話題にした直後でした。
死者であるカムパネルラがこれを指差し、まだ生者であるジョバンニは「まるでぎくっと」した後で、「もうどんな暗闇の中でも怖くない」「どこまでもいっしょにいこうね」とカムパネルラに語りかけます。しかしジョバンニが視線を戻すまでの一瞬で、カムパネルラは消え失せてしまうのです。

 

この「石炭袋/そらの孔」とは、天の川銀河のただなかに存在する「暗黒星雲」であろうということは、「銀河鉄道の夜」に関する考察の文章で触れられています。
暗黒星雲は「光さえ脱出不能重力場をもつ天体」であるブラックホールとは異なり、「光を出さない星雲」であり、暗黒星雲が黒く見えるのは、他の散光星雲が余るい光を放っていることで相対的に浮き上がって見えるからだと言われています。暗黒星雲は非常な低音で、ほぼ絶対零度(零下260度)だそうです。しかし、星雲ですから、ここから明るい星々も生まれてきます。
その暗さ、そして「カムパネルラがここを経由した後に消失する」という流れから、主人公とオベロン・ヴォーティガーンは奈落の虫に飛び込んで、オベロン・ヴォーティガーンだけがそこに取り残される構図に重ねられる気がします。

余談ではありますが、宮澤賢治は故郷・花巻で星空を入念かつ詳細に観察し、夜空の精緻な描写をしていました。彼は最上川のほとりにある丘に「イギリス海岸」と愛称をつけて、好んでここに足を向けたそうです。ちょっとした繋がりですね。

 

 

 

 

また、『銀河鉄道の夜』のラストシーンにも想像を掻き立てられますが、これから述べる内容は2部6章というより、作品全体のテーマに通底するもののような気がしますので、2部6章についてのお話だけでよろしいという方はここで切り上げていただければと思います。


突如として消えてしまったカムパネルラを必死でさがすジョバンニの前に、「大きな一冊の本」を持った「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔のやせた大人」が現れます。その人は、カムパネルラがどうしてもジョバンニと一緒には行けないこと、あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、みんなと一緒に早くそこへ行かなければいけないということを伝えた後、このように語ります(かなり長いですが、以下に引用します)。

 

「おまえはおまえの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁいけない。おまえは化学をならったろう、水は酸素と水素からできているということを知っている。いまはたれだってそれを疑いやしない。実験してみるとほんとにそうなんだから。けれども昔はそれを水銀と塩でできていると言ったり、水銀と硫黄でできていると言ったりいろいろ議論したのだ。みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう、けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。そして勝負がつかないだろう。けれども、もしおまえがほんとうに勉強して実験でちゃんとほんとうの考えと、うその考えとを分けてしまえば、その実験の方法さえきまれば、もう信仰も化学と同じようになる。けれども、ね、ちょっとこの本をごらん。いいかい、これは地理と歴史の時点だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん。紀元前二千二百年のことでないよ、紀元前二千二百年のころにみんなが考えていた地理と歴史というものが書いてある。
だからこの頁一つが一冊の地歴の本にあたるんだ。いいかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本当だ。さがすと証拠もぞくぞく出ている。けれどもそれが少しどうかなとこう考え出してごらん、そら、それは次の頁だよ。
紀元前一千年。だいぶ、地理も歴史も変わってるだろう。このときにはこうなのだ。変な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考えだって、天の川だって汽車だって歴史だって、ただそう感じているのなんだから、そらごらん、ぼくといっしょにすこしこころもちをしずかにしてごらん。いいか」

そのひとは指を一本あげてしずかにそれをおろしました。するといきなりジョバンニは自分というものが、じぶんの考えというものが、汽車やその学者や天の川やみんないっしょにぽかっと光って、しいんとなくなって、ぽかっとともってまたなくなって、そしてその一つがぽかっとともると、あらゆる広い世界ががらんとひらけ、あらゆる歴史がそなわり、すっと消えると、もうがらんとした、ただもうそれっきりになってしまうのを見ました。だんだんそれが早くなって、まもなくすっかりもとのとおりになりました。
「さあいいか。だからおまえの実験は、このきれぎれの考えのはじめから終わりすべてにわたるようでなければいけない。それがむずかしいことなのだ。けれども、もちろんそのときだけのでもいいのだ。ああごらん、あすこにプレシオスが見える。おまえはあのプレシオスの鎖を解かなければならない」
そのときまっくらな地平線の向こうから青じろいのろしが、まるでひるまのようにうちあげられ、汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかかって光りつづけました。

 

この引用部分は科学的思考法と信仰の問題を対置しつつ、「信仰や善悪は各人によって異なるが、異なるからといって共感できないわけではない」「しかし信仰にも科学と同じような方法論さえきまってしまえば、みなが一つの信仰を共有することも可能なのではないか」「科学には実験と証明の手立てがあり、みなが納得して同じ認識を共有できる」「しかし、その時代その時代の自然科学は異なっており、世界が真にどうあるかにかかわらず、人間はその時世界をどう認識するかに拠って生き、それを記録として残し続ける」という指摘がなされています。

「冠位時間神殿ソロモン」の映画を観賞し、その中で主人公・藤丸立香が朗々と謳い上げた「宣誓」が頭を過り、「ああこれはひょっとして人理の何たるかと、星見(カルデア)の理念をうまく説明した一節なのではないか」と思いました。

まるで魔法使いのような「男」から、すべての時代・ひとの認識を貫いて、普遍性を獲得できる「実験」を、主人公は求められています。
けれども同時に「男」は、「それはむずかしいこと」であり、「もちろんそのときだけものものでもいい」と付け加え、その道のりの困難なこと、その時代・その人だけが持ちえる「一回性」のものにすぎなくても構わないのだということも言っています。

最後に出てきた意味深な言葉。「プレシオス」とは「プレアデス星団」であり、日本では「昴」として知られている7つの星のことです。「すばる」は「統べる」である、「統一されている」もの。この「鎖を解く」とは、一つひとつの星をばらばらにして、解放するということなのですが、それは何を表しているのか。
そもそもこの言葉の出典は、恐らく旧約聖書の『ヨブ記』であり、

 

「あなたはプレアデスの鎖を結びつけることができるか。
オリオン座の綱を解くことができるか。」

 

という一節から採られているものと思われます。
ヨブ記』自体の解釈は、とても手に余りますのでいたしませんが、この言葉が「神からヨブへの問いかけ(あるいは叱責)である」ということは、浅学の私でも、言ってよいかと思います。
ユダヤ教における唯一神が、人の知り得ない「こと」として問いかけた(であろう)たくさんの事柄の中に含まれる「こと」であるという点から、「プレアデスの鎖を解くことのできる者」は「神」である、と考えることも出来そうです。
人の営為のすべてを俯瞰し、歴史を貫いて成立する普遍的な自然観・倫理観を確立することができる者。もしもそんなものがいるとすれば、きっと人々はそれを「神」と呼ぶよなあ、とぼんやり思いました。

 

何となく、ジョバンニに最後の助言をするこの「男」は、ゲーティアであり、パツシィであり、オベロンであるような気がします。
自分は「人の祈りを束ねし者」だと冠位時間神殿で藤丸立香は叫びましたが、「人の祈り」はいつか「神の定め(天体間に働く重力関係や、神話に沿って形造られた星座の枠)」を解き放って、新たな秩序を齎すことを期待されているのかもしれない。バビロニアや冠位時間神殿ても度々言及されていたように、「神代の終わり」はまだ不完全にしか達成されておらず(魔術が細々とでも生き延びているのですから、そう言える気もします)藤丸立香は「ふつうの人間」として、カルデアという「星見」の立場から、世界の秩序体系の更新を迫られているのかもしれない。それは「やりたいからやる」のではなくて、「銀河鉄道」という「死に向かって直線に動き続ける旅路」において「ボックス席の向かい側にいきなり出現した誰か」、関わり合いになろうとも思わなかったけれど出会ってしまった「一人と一人として関わり合った誰か」に「強く求められて」のことなのかもしれません。

 

蹴り出されるように背を押され、一人でとぼとぼと、やるせなさを堪えながら歩き出す姿は誰から見ても悲しく、世界のための大義を果たそうとする人間としてはあまりに悲痛です。
ですが、「ほんたうにみんなのさいはひのために」世界を背負う人間がもしいるとしたら、それはstay/nightで描かれた「衛宮士郎」でも、zeroで描かれた「切嗣」でも、Apocryphaで描かれた「ジーク」でもなく、FGOのこの「藤丸立香」という形が完成形なのかもしれないな、と思いました。
2部6章では、それを「アヴァロンの妖精・アルトリアという名の少女」という形で非常に生々しく見せつけられてしまったわけですが、彼女と藤丸立香の類似性を公式から指摘される度に、個人的には自分が操っていたはずの「主人公」がどんどん自分の手から離れ、一人のキャラクターとして立っていくような感覚を覚えました。

真に「物語の中の人」として、自分の分身でもあったはずの人格が吸収されていくのはなかなかに痛みを伴うものでしたが、これによって藤丸立香はあの物語世界での「プレシオスの鎖を解く者」となるのか、そこを気にしながら、本編の更新をとても楽しみに待ちたいと思います。